僕はアニメでも漫画でも、ひたすらがむしゃらにトレーニングを続ける日々を見るとやる気が湧いてきたりします(だいたいそういうシーンはダイジェストなので短いのですが)。
「なんか俺もがむしゃらに打ち込んで自分を鍛えねば!」
と思ったりするわけです。僕は趣味が広いのですが、逆にひとつのことにものすごく打ち込める厚いタイプではないので憧れがあるのですね。
でも僕は”がむしゃらにやる“ということに苦しむ人生も送ってきたりしていて、今回はそんな”がむしゃら”の弊害について書いていきたいと思います。
■”がむしゃらに頑張っている自分”に裏切られ続けた僕は結果主義者になった。
がむしゃらに努力することは良いことか?
良いことだと思います。否定はしません。
でもがむしゃらな努力をすれば報われるかというと、それについてはNOだと考えています。寂しいやつだとかドライだとか思われるかもしれませんが、僕が結果にこだわるようになった(自身のことについては、結果が出なければその過程も正直あまり評価できない人間になった)のは、がむしゃらな努力で報われなかったことが背景です。
ひとつは大学受験。現役のときはマジで勉強していなかったので悪い結果でも仕方ないですが、浪人時代は誰よりも早く予備校に着いて勉強を始め、誰よりも遅くまでやっていました。休みももちろん関係なく、家に帰ってからもさらに勉強です。
それでも思った結果が出ませんでした。自分はダメなやつだ、と長く落ち込んだものです。しかしあれだけ努力しても思った結果が出なかったのは、ただ頑張るだけで”効率”を考えたり”体系的”に理解しようとしなかったからでしょう。
大学の就職活動もそう。今度は自分なりにはよく作戦を考えて挑み、トヨタなど良い企業の内定も複数もらったのですが、狙っていたコンサルティングファームは最終面接で落とされてしまいました。。当時トヨタなんて「親が子供に行って欲しい企業ランキング1位」でしたから親は喜んでくれましたが、自分としては実力のなさに大きく肩を落としたものです。
トヨタよりコンサルティングファームの難易度が高いということではなく、自分の狙ったところに行けないということは、自分の実力不足以外の何者でもないと考えたのですね。あとから思えばたくさんの反省があります。今だからこそ何が欠けていたのかもアタリがつきます。
■要領の良い人間はいるが、その考え方やノウハウは後天的に学ぶことができる。
仕事に置き換えて言うと至極当然のように聞こえますが、
- 求められている要素とそれらの目指す状態を明確にする
- それら要素を揃えるために必要なステップを検討する
- 先人の知恵を取り入れたり効率的な方法を検討する
- 期限から逆算して進捗を測りつつ実行する
ということをやっていきます。大学受験の僕はこれらを飛ばして、ただ”がむしゃら”に実行することだけをやっていたんですね。
そして就職活動のときは1に抜けている要素があった。学生の僕から見て網羅的に見えた要素に、ビジネスマンから見ると大きな抜けがあったということです。受験も就活も、たとえ予備校に通おうが上記のような進め方について明確な指導をしてくれることはレアケースだと思います。
その一方で、周りの一見遊んでばかりいたように見える奴でも、こういったポイントを抑えてスパッと第1志望を勝ち取る人間がいる。確かにこういうことを自然とやってのける人種はいます。平たく言えば”要領の良いやつ”あるいは”天才肌”と呼ばれている人たち。
不公平だ、才能の違いだと嘆きたくもなりますが(かつて僕は激しく嘆いた)、こういった考え方やノウハウは学ぶことができます。その学びの速度に差は出るかもしれませんが、誰でも身に付けることはできるはずです。
■”がむしゃらに頑張っている自分”というものは自己評価を濁す。
僕がそうでしたが、”がむしゃらに頑張っている自分”そのものが可愛くなってきてしまうのが人間です。人一倍頑張っているから、進んで苦労しているから大丈夫なはずだ。あるいは悲運な主人公を演じたいだけかもしれません。
(自分自身に対して)もっと辛辣に言うと、
「人よりも頑張ったのだから、それでもダメならしょうがないでしょう?どうしようもなかったでしょう?僕を責めることはできないでしょう?」
と失敗したときの言い訳を作っているのかもしれません。がむしゃらな努力を免罪符にしているだけなのかもしれません。
いつか努力は報われるはずだと、マンガに流されて盲目にがむしゃらをつづけてはいけないということですね。ただもちろん戦略的な進め方があって、さらに努力を惜しまない人間は本当に大きな結果を残すかもしれません。
まぁマンガの主人公は作者の考え出した架空の人物であり、奇跡を起こす力を兼ね備えた天才という、超イレギュラーなのですから。。